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IKO Nakamura 国際親善大会 12月10日(日)大会概要 出場申込書(国内選手締め切り11月6日必着)

中村誠 八段

極真会館兵庫・大阪南支部 支部長 

 

選手としての伝説

 

昭和27年6月20日宮崎県日之影町に7人兄弟の4男として生まれる。幼い頃より格闘技に興味をもち、高校を卒業した後、池袋の極真会館総本部道場(旧本部)に入門。故・大山倍達極真会館総裁をはじめ極真の獅子たちの下で、極真魂の神髄、そして技を学ぶ。恵まれた体格を最大限に活かし、初出場であった77年第9回全日本大会でいきなり3位に食い込む。同大会4回戦では竹和也選手と対戦。後年、数々の有名選手を輩出する事になる両支部長のカードがここで実現している。翌78年第10回全日本大会においても3位入賞を果たす。2年連続3位という成績は中村選手の実力の証しとなり、その潜在能力は臨界点に向け上昇していた。同大会準決勝では、伝説の空手家である二宮城光選手との対戦が実現している。そして79年5月第11回全日本空手道選手権大会では遂に優勝を果たす。準決勝において東孝選手を破り、決勝では三瓶啓二選手と対峙し勝利をものにする。極真の一時代を築いた「三誠時代」の幕開けである。

 

全日本大会での優勝は目前に迫った世界大会への日本代表権をもたらした。空手母国日本の王座死守という絶対目標を達成するため、自らを厳しい環境の中に追いやり、アメリカをはじめアフリカなど海外での修行を経験する。そして11月、第2回全世界空手道選手権大会が盛大に開催された。海外選手は長足の進歩を遂げており、質・量共に4年前の第1回大会とは比較にならないほどのレベルアップを果たしていた。次々と敗退する日本選手に海外勢の脅威は武道館に顕在化し、その燎原は中村選手にも襲い掛かることになる。大会2日目3回戦、スウェーデンからの無名選手に大苦戦を強いられるのである。茶帯を巻いた長身のハンス・ドルフ・ラングレン選手は全日本王者の強力な突きにひるむことなく、足技を出し続け互角の戦いを展開した。延長戦においてなんとか振り切った中村選手であったが、心胆を寒からしめる試合内容であった。準々決勝では現・京都支部支部長である川畑幸一選手と対戦し勝利。本大会で8位入賞を果たした同選手の活躍は後続する軽量級選手達にとって希望の星となった。そして決勝では、この時点で通算3度目の対戦となる三瓶選手を抑え、優勝の栄冠に輝くと同時に「極真の重戦車」の名を不動のものとする。

 

しかし80年そして81年に開催された全日本大会では準優勝に留まる。更に82年第14回全日本大会ではベスト8入りをも逃してしまう。そして83年の第15回全日本は出場さえ見送る結果となった。この時既に支部長として兵庫にいた中村選手には稽古相手の不足、指導と選手の両立、演武による手の甲の骨折、31歳という年齢など不安材料を幾つも抱えていた。マスコミや極真関係者の間で引退説がささやかれ始めるのも当然であった。そうした状況の中、84年の世界大会イヤーは刻々と近づいていた。前回大会優勝の実績に基づき代表権を得た中村選手は自分を信じ続け稽古に没頭した。そして84年1月第3回全世界空手道選手権大会の火蓋が遂に切って落とされた。

 

大会初日、2日目では順調に勝ち上がるものの2年ぶりの大会に動きに硬さが見られた。向かえた最終日。4回戦、「イギリスの黒豹」と異名をとるマイケル・トンプソン選手との試合で試練が待ち構えていた。トンプソンはフットワークを駆使し中村選手に決定打を打たせなかった。判定では有利であった中村選手であったが、大山総裁ははっきりとした決着がつくまで試合を続行することを場内にアナウンスした。満員の武道館に大歓声が渦巻く中、死闘は5回の延長戦にまでもつれこんだ。ここで気力を振り絞り怒涛の攻撃を見せ辛くも勝利を収める。この戦いで 勝負勘を取り戻した中村選手は5回戦以降全盛期以上の動きを見せ始める。極真に技術革命をもたらしたといわれる突きのコンビネーションが冴え渡り、更にこの大会のために相当量の稽古を費やした前蹴りや後ろ蹴りに代表される足技は相手の闘争意欲をそぐほど豪快なものであった。

 

そして準決勝では14回全日本で苦杯を舐めさせられたブラジルのアデミール・コスタ 選手 と再び拳を交えることとなった。滑らかなフットワークと多彩な蹴り技でここまで全く危なげなく勝ち進んできたアデミール選手はこの時日本選手団にとって脅威となっていた。一度敗れている中村選手が相当の苦戦をするというのが関係者・ファンの大方の予想であった。結果は予想と全く逆となり中村選手が大差の判定で 勝利をものにした。すばやい出入りで一気に詰め寄り攻撃の手を緩めない中村選手に対しブラジル選手はただ後退を繰り返すだけであった。決勝では「三誠時代」という一時代を築いた宿敵・三瓶啓二選手に判定勝ちし前人未到の2大会連続世界チャンピオンとなる。4年に一度しか開催されない同大会での2回連続優勝というこの記録を破ることはほぼ不可能と言われ、中村誠の名は「キング ・オブ・キョクシン」として極真史上で永遠に語り継がれることであろう。

 

極真伝道者として

 

第2回世界大会後、大山総裁より兵庫県支部・支部長の認可を受け東京を離れる。まさにゼロからの出発であった。兵庫に到着しほどなく芦屋市にある仏教会館に支部発足最初の道場を設立する。右も左も判らない新しい土地での活動は困難を極め、道場運営の難しさに直面する。しかし昼夜を問わず道場の広告活動に明け暮れ、極真空手の普及に努めた結果、道場生数が順調に伸び始める。支部発足2年後には念願であった常設道場を尼崎市に設立。道場生や親類一同の協力を得、オフィスビル地下駐車場を改造した手造り道場の完成は将来における中村道場発展の礎となった。実際、後年にはこの尼崎道場から多数の 指導員・有力選手が輩出されている。道場兼オフィスとなった尼崎道場には連日見学者が訪れ始め、一般稽古は活況を極めた。

 

世界チャンピオンという金看板とその懇切丁寧な指導法は次第にこの地域にも根付き始め、テレビやラジオのマスコミにも中村道場が取り上げられ紹介されるようになった。 83年には支部発足以来始めての県下交流試合を開催し成功に導く。さらにその2年後、初の兵庫県空手道選手権大会を開催。大山総裁をお迎えしての同大会は満員の観客が会場を埋め大成功を収めた。この後、オフィスを県庁所在地である兵庫最大都市神戸に移し更なる活動が展開される。常設道場も明石市、加古川市、神戸市に設立され道場数は増加の一途を辿る。また大阪 府南部管轄の要請を東京本部道場から受け大阪南支部・支部長を兼任 することとなる。支部内の選手レベルも向上し全日本大会やウェイト制大会で活躍する選手が出始める 。第3回全日本ウェイト制大会では中村道場が全階級制覇という偉業を成し遂げた。

 

順風満帆に見えた支部運営であったが、1994年4月、師である大山総裁の訃報を聞くに至る。敬愛する師匠の死は精神的な打撃を与えるに十分であった。総裁の死に伴い極真会館自体も組織分裂の憂き目に合う。更に 追い討ちをかけるように95年1月阪神・淡路大震災が地元神戸を直撃する。震災は弟子の命をも奪い去り、神戸の街を焼け野原に変貌させた。こういった度重なる苦難のなかでも支部活動は一日たりとも休止しなかった。不屈の精神で数々の試練を乗り越え、1996年悲願であった神戸総本部道場の設立を成就する。本道場、サブ道場、ウェイトルーム、オフィス、内弟子宿泊施設等全てが整ったこの道場は空手専用の施設としては他に類を見ない大道場である。

 

道場拡張に比例し中村道場主催の大会運営も大規模なものへと発展していった。現在では毎年2月に開催される播州姫路カップ、4月のOSAKA’S CUP、8月の 全関西大会、そして12月のKOBE’S CUPを定期的に開催している。いずれの大会も参加選手800人に達する規模である。また関西地区本部長を兼任するため6月開催の全日本ウェイト制大会の主管を勤める。更に近隣支部主催の地区大会へも審判長として精力的に参加。「世界の中村」 の名声は海外支部にもとどろき、ロシアやポーランドといった様々な国々でのセミナーに招待される。また2003年第8回世界大会では日本選手団総監督を務め、日本の王座奪還へ尽力した。極真空手の普及のためこれほど多忙な毎日を送る師範も数少ないであろう。そしてその 剛腹さと繊細さを併せ持つ人柄は多くの 人々を魅了した。関西圏に存在する道場運営者・支部長には中村道場出身が多数を占める。選手育成においても1987年第4回世界大会から2007年の第9回まで6大会連続して弟子を日本代表団に送り込んでいる。こういった実績は中村師範の「人材育成能力」の高さを証明している。

 

2016年現在、支部下の道場数も60を超え、子供から大人まで幅広い年齢層の門下生が汗を流している。 中村師範ご自身も初心を忘れることなく、現在でも少年部・一般部の指導をされ生涯現役の精神を実践されている。30年前、何も無い「ゼロからの出発」は着実に実を結び 、21世紀現在「極真の重戦車」は未来に向け更なる飛躍を遂げることであろう。

 

大会出場歴

 

1977年 4月 ハワイ大会出場

1977年10月 第9回全日本空手道選手権大会第3位

1978年 3月 ハワイ大会出場

1978年11月 第10回全日本空手道選手権大会第3位

1979年 3月 アメリカ・アラバマ州空手道選手権大会重量級第3位

1979年 4月 アメリカ・コネチカット州空手道選手権大会重量級優勝

1979年 5月 第11回全日本空手道選手権大会優勝

1979年11月 第2回世界空手道選手権大会優勝

1980年11月 第12回全日本空手道選手権大会準優勝

1981年11月 第13回全日本空手道選手権大会準優勝

1982年11月 第14回全日本空手道選手権大会出場

1984年 1月 第3回世界空手道選手権大会優勝

 

全戦績(全日本・世界大会) ※敬称略

 

1977年 第9回全日本大会 3位

1R  川野道弘

2R  高橋行夫

3R  黒田弘幸

4R  竹 和也

準々決勝   三瓶啓二

準決勝  東 孝

3位決定戦  浜井識安

 

1978年 第10回全日本大会 3位

1R  日域 学

2R  宮本信行

3R  鈴木俊光

4R 伊藤藤行

準々決勝   鈴木 勝

準決勝  二宮城光

3位決定戦  広重 毅

 

1979年 第11回全日本大会 優勝

1R  久保田金三

2R  加藤友昭

3R  瀬戸秀二

準々決勝   川畑幸一

準決勝   東 孝

決勝  三瓶 啓二

 

1979年 第2回全世界大会 優勝

1R (シード)

2R  ヘンリー・チョイ

3R  ハンス・ドルフ・ラングレン

4R  J・マックシェリー

5R  K・スカーレンベルグ

準々決勝  川畑幸一

準決勝   東 孝

決勝  三瓶啓二

 

1980年 第12回全日本大会 準優勝

1R  浜井麗充

2R  脇内 勉

3R  渡辺和貴

4R 伊藤藤行

準々決勝   矢島史郎

準決勝   為永 隆

決勝  三瓶啓二

 

1981年 第13回全日本大会 準優勝

1R  斉藤正義

2R  国本武市

3R  中村 仁

4R  脇内 勉

準々決勝  竹山春友

準決勝  白石昌幸

決勝  三瓶啓二

 

1982年 第14回全日本大会 ベスト16

1R  秋月哲明

2R  千葉信吾

3R  国本武市

4R  アデミール・ダ・コスタ

 

1983年 第3回全世界大会 優勝

1R (シード)

2R  A・L・バーナード

3R  F・J・ソリス

4R  マイケル・トンプソン

5R  ミカエル・ソーデルクヴィスト

準々決勝  ディブ・グリーブス

準決勝  アデミール・ダ・コスタ

決勝  三瓶啓二

 

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